今年の1冊目。
森さん(森博嗣)のブログを読んでた人にとっては慣れた感じだけど、世の中の普通(つまり「常識」と呼ばれるもの)を、そもそもそういうものって「自分が支配されてる」ってことをちゃんと自覚してますかって話が延々と書いてある。
ぼくはこのへんに関してはとても共感してるというか自分も似たような考え方で生きてきたので、わりとすんなり読めた。最近は後半が出がらしみたいな本が多いけど(ページ数減らせばいいじゃんね)、この本は最後まで楽しく読めた。
この「自由」ってのはけっこうくせもので、去年このブログに「決めてあげることもやさしさだ」と書いたんだけどあの話には前段があるんですよ。
それは多くの人は自由を持て余すということ。
塾生を見ててもそうだけど、好きにしていいと言われると何もできなくなる人はけっこう多い。自分で決める権利を放棄してでも、決めてもらう支配を望む。望まないまでも進んで受け入れる。ぼくにはわからない。
「選択」と「決定」というのは自由の象徴なのに。
たしかになんでもかんでも選択したり決定したりするのは疲れる。朝食なんてパンでもご飯でもいいよってこともあるし、テレビなんてアクオスでもブラビアでもどっちでもいいってこともあるだろう。
だけどどう生きるか、その時間をどう使うかについてまで権利を放棄するのはあまりにもったいない。まあ本人がそれでいいなら他人がとやかく言う話じゃないんだけどね。
ぼくが森さんを好きなのは自分と考えや価値観が近いからなんだけど(資産は雲泥の差なのが悲しい)、この本でも『「抽象力」の大切さ』として、ぼくがよく話す本質の話と似たようなことが書いてある。
この段落だけ抜き出してみます。メンドクサイけど。
(これって引用の範囲内でいいよね?)
◇「抽象力」の大切さ(P.105)この頃の若者に目立つ傾向だが、ついつい具体的なものに目を奪われてしまうこと。これはたぶんテレビの影響だと思われる。どこかの店でこんなメニューが美味しいと報道されると、もうそれを食べなければ気がすまなくなる。そうでなくても、同じ料理を食べたくなる。
しかし、その本質は何かと冷静になって考えれば、「美味いものを食べたい」という単なる食欲なのだ。自分が好きなものを食べれば良い。それに、食べるのはいつだって良い。
あるいは、もう少し考えてみる。しばらく食べていなかった懐かしいものとか、今まで食べたことのない味とか、それとも、食べるときの雰囲気とか、そういった抽象的なものが本質かもしれない。それを瞬時に見極める目が重要だと思う。
自分が何をしたいのか、案外人間はそれを曖昧なままにして行動しているものだ。
ものごとを抽象的に捉える目、つまり「抽象力」を持っている人は、他者の成功例、そのノウハウといった情報から、たちまち抽象して本質を見出す。そうすれば、まったく違う分野のものであっても、自分の現在の問題に役立てることができる。応用力といっても良いだろう。
したがって、成功者、賢人の書を読むことは、もちろん有用だけれど、そこにある言葉や、具体例に目を奪われていてはいけない。具体的なもの、つまり目に見える「象」を排除して、内に隠れているコンテンツを掴み取ること、これ以外に万能のノウハウはない。
抽象的すぎてわからない? それがもう勘違いである。抽象的だから理解できるのだし、具体的すぎてわからないものが多すぎるのだ。
このへんは本当にそう思う。言葉通りに受け止めてしまって、そこで判断して終わり。それ以上の思考はストップして、次の具体的な何かを求めて去ってしまう。本当に有用なもの、有益なことを置いたままにして。
そこに書かれていないこと、(意図的であれ無意識であれ)隠されていることを想像しない人があまりに多すぎる。
まあテレビの影響という点ではぼくは人並み以上に受けているだろうし、今日もこれから寿司を食べに行こうと思ってるんだけど、そのきっかけは昨夜見たスシローのCMだ。行くのはおしどり寿司だけどね。
だからべつに脊髄反射のように行動することがすべて悪いことだとも思ってない。実際、森さんもそう書いている。
森さんの考えや行動規範を模倣するかどうかさえ、ぼくらの自由なんだから。
ただ現実として、多くの人は勝手に自主規制しまくっているために、自らその自由を奪ってる。でもその選択や決定によって生じるリスクさえちゃんと把握しておけば、もっと自分の思うままに行動すればいい。もちろん選択しないリスクもあるわけだしね。
まあこういう考え方が異端視されること、これこそがまさに世の中が相対的に決まっていることを示す好例だとぼくは感じた。
このブログを読んでくれてる人ならけっこう楽しめるんじゃないかな。
[追記]
過去にも森さんの発言は取り上げてるのでついでに紹介。











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